中国古典『杜子春』と芥川龍之介著『杜子春』の比較から見る芥川龍之介の人間性への探求

2017-03-31 13:40陶云静
青春岁月 2017年3期
关键词:龙之介人間芥川

陶云静

【摘要】笔者通过对比中国古典作品《杜子春》和由此改编的芥川龙之介作品《杜子春》,发现在“金钱面前杜子春的表现”、“仙人给杜子春金钱的方式”、“杜子春想成仙的理由”、“爱的作用”及“杜子春未能成仙时仙人的态度”等方面,后者与前者有较大的不同。本论文通过分析芥川龙之介在以上等方面对原文的改动,来讨论芥川龙之介对人的欲望、积极向上的精神以及真爱等人性的探寻。

【キーワード】比較;人間性;人間像

はじめに:

中国古典『杜子春』(以下は『唐伝奇杜子春』と略称する)は唐代の牛僧孺氏が編纂した伝奇小説集『玄怪録』の中の「卷一」で、原文は2000文字くらいのものである。

芥川龍之介著『杜子春』(以下は『杜子春』と略称する)は1920年芥川が29歳の時、鈴木三重吉編の子供向きの雑誌『赤い鳥』に掲載された小説である。

『杜子春』は『唐伝奇杜子春』に基づいて書いたものとはいえ、文の構造から描写の方法、文脈の運び方、さらに結末にも大きな違いが存在している。

芥川龍之介が一番得意としているのは人間性や人間の心理描写だとよく言われている。彼は多くの作品の中で、人間性や人の心理を徹底的に分析し、詳細に、そして生き生きと描写したことから、日本文壇の鬼才とも呼ばれているそうである。そして、日本や中国の古典を素材に、新しい角度から書き直すことにより、新しい思想を表すのも芥川小説の一つの特徴と言えることであろう。

芥川龍之介著の『杜子春』もそういう小説で、原文の変更を通して作者の人間性を探求する思想を表し、杜子春という人物を通して、作者の考える欲望もある、希望も持っている、愛を信じている人間像を読者の前に再現したと言えよう。

一、人間には欲望がある

『唐伝奇杜子春』で、仙人は三度目に杜子春にお金をあげた時、杜子春はその恩を返すため、すべてのお金をそれを必要とする人にあげ、仙人のところへ行った。

“因谓老人曰:‘吾得此,人间之事可以立,孤孀可以衣食,于名教复圆矣。感叟深惠,立事之后,唯叟所使。”(杜子春は老人にこのように言いました「これぐらいのお金があるのなら、この世に立つことができ、孤児や寡婦を救済し、名誉を取り戻すことができます。仙人のご恩に深く感謝しています。これらのことを済ましてから仙人に仕えに行きたいと思います。」)

しかし、『杜子春』では、仙人は三度目に杜子春に金をあげた時、杜子春はそれを受け取らなかった。老人に理由を聞かれた時、「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです。」と答えた。さらに老人が「では、これから貧乏をしても、安らかに暮らして行くつもりか。」と聞かれた時の杜子春の顔つきや言葉の描写を見てみよう。

杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼をあげると、訴えるように老人の顔を見ながら「それも今の私にはできません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることはできないはずです。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えてください。」

『唐伝奇杜子春』の中の杜子春のきれいさっぱり金と関係を断つ態度より、『杜子春』の杜子春は「ちょいとためらいました」、そして、明確に「贅沢に飽きたのじゃありません」と答えた。それに、仙人になりたいと懇願したのも薄情の世に飽きたほか「不思議な仙術」を習いたいのも理由の一つである。

『唐伝奇杜子春』より『杜子春』のほうがもっと人間らしいのではないか。人間には欲望がある、それを避けるより、堂々と書いたことにより物語が現実に接近してきたような気がする。

ここは、原文と違い、芥川は杜子春に人間性を注入したと言えよう。人間である以上、だれにも欲望がある。それは事実であるから、避ける必要もないのではないか。恐らく、芥川はこういうところを伝えたいことであろう。

二、積極的、前向きな人間性への追求

前節でも述べたが、人間には欲望がある。その欲望を満たすのも人間性の一つである。どうやって欲望を満たすのか。芥川龍之介が『杜子春』の中でその答えを教えてくれた。

『唐伝奇杜子春』と比べてもわかるように、仙人が杜子春にお金をあげる方式が全く異なっている。『唐伝奇杜子春』では、仙人が直接杜子春に三百万、一千万、三千万とお金をあげたのに対し、『杜子春』では、仙人が杜子春に「お前の影が地に映ったら、その頭に当たるところを夜中に掘ってみるが好い」「胸に当たるところを掘ってみるが好い」「腹に当たるところを掘ってみるが好い」と指示した。

何もせずただお金をもらう『唐伝奇杜子春』より、『杜子春』ではお金をもらうために、少しでも努力が必要であるという思想が含まれている。そして、なぜ設定したところは頭に当たるところ、胸、腹に当たるところなのだろう。ここで、芥川は仙人の口を借りて「実際の地面を掘るより、自分の知恵(頭)、力(胸、腹)を絞って努力すればいいのではありませんか。そうすればこそ金持になりますよ」という思想を伝えていると思われる。人間として生まれた以上は、自分の知恵、自分の力を通して積極的、前向きに生きるべきだと芥川が訴えていることであろう。

そして、『唐伝奇杜子春』の最後では、仙人は失望してそのまま杜子春を帰した。

道士嘆曰:“措大误于乃如是!”“嗟乎,仙才之难得也!”“吾药可重炼,而子之身犹为世界所容矣。勉之哉。”遥指路使归。(道士は「これほど大きな間違いがありません!」「仙人はあり難いね!」「わが仙丹はまた作ることができますが、あなたの身はまだ俗世に属しています。帰って勤勉に道の修行をしなさい」と言って、道を指差して杜子春を帰した。)

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